明治維新の王政復古から戊辰戦争の時代にあって、皇族でありながら朝敵となった人物がいた。上の寛永寺山主の輪王寺宮能久親王だ。
本書は激動の時代の波に翻弄された輪王寺宮の数奇な運命を描いた大作。輪王寺宮は明治天皇の父である孝明天皇の猶子であり、したがって明治天皇の叔父にあたる皇族であった。勅命により上野東叡山寛永寺並びに日光山輪王寺の山主に任ぜられていた。
朝廷は王政復古を宣言し、徳川慶喜の追討例を出し、鳥羽伏見の戦いの後江戸へ攻め上った。この時朝廷は慶喜の切腹と徳川家の廃絶を意図していた。
徳川慶喜は江戸城を退去し、上野寛永寺に蟄居しひたすら恭順の意を示した。慶喜は朝敵の汚名をそそぎ、徳川家の存続を願い、江戸を戦火に曝さないために手を尽くして朝廷への工作を行った。
慶喜は皇女和宮に嘆願して朝廷へのとりなしを依頼した。和宮はこれに応じて側近を朝廷に遣わし、徳川家の家名存続と江戸を戦火に巻き込まないことを嘆願した。公卿を代表する岩倉具視は和宮の侍女に会い、「慶喜公が誠意をもって恭順謝罪するならば、徳川家の存続も不可能なことではない、それを和宮様にお伝えするように・・・」と、言った。
岩倉をはじめとする公卿はこのような立場をしめしたが、新政権の中心にいた薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通は慶喜の切腹と徳川家の断絶を求める強硬論を主張した。
朝廷は依然として徳川家追討の意志を貫き江戸を目指して軍を進めた。これに対して慶喜は輪王寺宮にすがり朝廷へのとりなしを依頼した。輪王寺宮はこれを受けて江戸を立ち駿府に在陣していた有栖川親王を訪ね朝廷へ徳川家存続の嘆願の意を告げた。
しかし有栖川宮は輪王寺宮の嘆願をけんもほろろの態度で冷たく拒絶し江戸へと追い返した。輪王寺宮は皇族の身でありながらこのような冷酷な仕打ちを受けたことに激しい憤りを覚えながら傷心の内に帰路に就いた。この時有栖川宮から受けた仕打ちがトラウマとなって以後の輪王寺宮の朝廷に対する反抗心につながった。
官軍が品川宿にまで押し寄せ、江戸での決戦が間近に迫ったころ、慶喜の側近であった高橋泥舟は山岡鉄太郎を寛永寺に呼び出し慶喜に目通りさせた。慶喜は我が身の生死はさておき江戸を戦火に焼かせることは忍びないと、山岡に使者として官軍に赴き嘆願することを命じた。
山岡は幕府の実質的な司令塔を任じていた勝海舟に面会し、慶喜の意図を伝え勝の助力を願った、勝は西郷隆盛を旧知の中であるとして西郷への手紙を山岡に託し、また薩摩藩の益満休之助を山岡に同道させる手筈を整えた。
山岡は駿府で西郷に面談し、征討大総督府の意志としていくつかの条件を前提に慶喜を赦し、徳川家を存続させる言質を取ることに成功した。
和宮や輪王寺宮の嘆願を捨て置けないとする岩倉具視をはじめとする公卿の意向と、江戸城を攻めた時の社会不安の深刻化を回避しようとする意向が西郷や大久保にも芽生えたことが、朝廷の方針転換を促した。山岡が朝廷を動かしたというより、山岡の訪問がこの方針転換の背中を押したということになる。
江戸城が無事に官軍に引き渡された後、寛永寺を守護することを目論んで幕臣が上野に武装して終結した。その数はおよそ3千人にも達したという。すでに慶喜は水戸にて謹慎蟄居の身となっていたので、彰義隊の守るべき対象は自然に輪王寺宮にむけられることになった。
征討大総督府は輪王寺宮を京都へ移しこれによって彰義隊の支援消滅を狙い、輪王寺宮に使者を派遣したが、宮は断固としてこれを拒絶した。
官軍は彰義隊の征討を決意し、2万人の軍勢でこれを攻め、彰義隊の猛反撃にもかかわらずこれを攻めたて一日で壊滅させた。
輪王寺宮は上野を落ち延び、浅草、市ヶ谷の寛永寺末寺に身を潜めた。官軍による輪王寺宮の探索が厳しくなり、宮は榎本武揚の指揮する艦隊の船によって奥州に逃れた。
奥州では奥羽越列藩同盟が結成されこの盟主に輪王寺が推され、宮はこれを受け官軍との戦闘指揮にあたることになった。
奥羽越の諸藩は官軍とよく戦ったが、会津城の落城に続き米沢藩も降伏、最後に仙台藩も白旗を掲げるに至り戊辰戦争は終焉を迎えた。
奥羽越列藩同盟の盟主に推戴された輪王寺宮も官軍に帰順し、その後京都の実家に幽閉されることになった。
明治3年に宮の謹慎は解かれ、そのご宮はプロシャに留学しプロシャ流の陸軍戦略戦術を学んだ。
帰朝した宮は陸軍に身を置き、近衛師団長に上り詰め、明治28年に台湾にわたり台湾征討にあたった。このとき宮はマラリヤにり患しこれにより台湾にて帰らぬ人となった。
宮の生涯を振り返ると、紙一重の状況の差異が大きな運命の波動につながり、その波に翻弄されるという現実が浮かび上がる。
輪王寺宮が駿府の征討大総督府を訪れたのが2月、山岡鉄太郎が駿府に至り西郷と面談したのが3月。その間一月にも満たない。この間に朝廷内に大きな方針転換があった。そしてその転換に輪王寺宮の嘆願努力が大きな力となったに違いない。
そのことを知らずに輪王寺宮は深い失望と失意を味わい、その後の反朝廷への動きに自然に与する深層意識が出来上がったということになる。このわずかな齟齬が、人を思わず思いはけない行動に駆り立ててしまう機微を、事実描写だけを丹念に積み上げることだけで本書はしっかりと描き切っている。
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