住民投票で否決されたことで「大阪都構想」は「なにわのことは夢のまた夢」に終わった。
夢は橋本氏が2018年に大阪府知事に就任したことに始まる。橋本氏は府の行政改革に取り組み、府民の圧倒的な支持を得た。
橋下氏は、大阪府知事就任から2年が経った2010年1月あたりから、大阪市を廃止する必要性に言及し始め、2010年4月19日、大阪市を廃止し特別区に分割する「大阪都構想」を掲げ、自らが代表となって大阪維新の会を結成した。
翌年の2011年4月に行われた統一地方選挙では、大阪府議会で単独過半数の議席を獲得、大阪市議会と堺市議会でも第一党の座を獲得し、大阪から日本が変わるのではないかという期待を全国に拡げた。
2012年には大阪府知事と大阪市長のW選挙を実施し、橋本氏は大阪市長に当選し、府知事には大阪維新の松井氏が当選し、大阪府と大阪市の連携による行政改革の進展が期待された。
また2012年9月には国政への進出を企図し国民政党「大阪維新の会」を結成し橋本氏は代表となった。また12月の衆議院議員選挙を優位に戦うために石原慎太郎氏の率いる「太陽の党」と合流し国民政党「日本維新の会」を結成し、選挙では54議席を占めるまで躍進し、野党第二位の位置を占めるに至った。
このころまでの橋本氏の政治活動は順風満帆の様を呈していたが、2014年の石原グループの離党、さらには結の党との合流を経て、橋本氏の政治的な影響力は次第に衰えを感じるようになってきた。
以上が橋本氏の7年間の政治活動の軌跡である。まさに大阪から日本を揺るがすほどの政治的な影響を及ぼす勢いを得たのもつかの間、瞬時に落日を迎えるドラマティックななりゆきであった。
橋本氏はなぜ失敗したのだろう?原因はただ一つだ。
原因は地方自治の改革から身を起こしながら、その足元を固めないうちに国政に参画することを急いだということに尽きる。
いまや国政は中央官僚の強固な支配による国家社会主義的な様相を呈している。民主党政権の末路を見るまでもなく、国政を動かすベく国会で議席を占めたところで、変革はすぐに壁にぶつかる。
地方から、まさしく大阪から変えることから始めなければならない。橋本氏は大阪を変えることに持てる資源を集中投下すべきだったのだ。戦略の要諦は集中にある。橋本氏は大阪と国政に資源を分散したことでつまずいたということだ。
行政機構の改革と同時に大阪を世界一住みやすい街にする、そして世界中から人が集まる街にするための戦略形成と実現こそが求められていたのだ。
この戦略実現には当然のことながら中央政府との権限と予算を巡るし烈な戦いは避けられない。政府との対立軸を明らかにし、対立の要因である政府の理不尽な政策のありかたを鮮明にし、そこに地域住民の強固な意志を味方につけることが力になるのだ。この力を基盤にして国政に影響力を及ぼし、国を変えることが可能になる。
大阪が地域革新のモデルとなり、それを日本中がめざすことになれば、地方は政府との戦いに協働し、連帯して取り組むことになるに違いない。このようにして地域住民が自らの暮らしと環境を変える取り組みに積極的に参加する形を常態にすることで、国のかたちが変わっていくはずだ。
「なにわの夢」はまことに残念な結末を迎えたというしかない。
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