本書は戦後70年の日本の現代史をそれぞれが自分史として振り返るための良いきっかけを作ってくれる好著だ。
慶應義塾大学総合政策学部教授で社会学者の小熊英二氏(1962年生まれ)が父謙二氏(1925年生まれ)の生涯を、謙二氏への聞き取をもとに生活者の個人史としてまとめたものだ。
本書は単なる聞き書きではない。聞き出した事実を巡ってその時々の客観的な社会、経済、政治状況をも掘り起し、謙二氏の体験がその当時の社会状況の中でどのように位置づけられるかについても考察が加えられているという意味で、個人史による20世紀の日本現代史の再構築の作業が丹念に行われているといえる。
謙二氏は東京で育ち、早稲田実業中学を卒業したいわゆるエリートには属さない市井の生活者だ。吉本隆明の言葉を借りれば「大衆の原像」をそのまま生きたといえる人物だ。
謙二氏は1944年19歳で召集され、満州に送られ、終戦時にソ連軍によって捕虜となり、そのままシベリヤに抑留され、3年間強制労働に就いて、零下30度の極寒と飢えで、それこそ死と隣り合わせの極限生活を強いられた。
このシベリヤ抑留を経験し、そこから生きて「帰った」経験がその後の生活者としての原点であることから本書の題名が決まったと考えられる。
謙二氏は帰国後結核に感染し、1951年に結核療養所に入所した。ストレプトマイシンなどの抗生物質が登場する直前の時期で、治癒する見込みもなく、しかも治癒しなければ出所できないという意味で、いつかは帰国できるという希望を持てたシベリヤ抑留よりもはるかに希望の持てない状況が続くことになった。
幸いなことにストレプトマイシンが治療に使われることになり、療養所生活は5年で幕を閉じることになった。
出所しても青春の20歳代をシベリヤと療養所で過ごした謙二氏には定職に就くことは困難で、いくつもの最底辺の職を転々とせざるを得なかった。
しかし日本が高度成長経済期に入るとともに、社会全体が浮揚し始め、そのチャンスをうまくつかんで、謙二氏の生活も浮揚し始めることになる。
ところで終戦後、日本の戦争を指導した将校や高級官僚がのうのうと生き延びて恩給をもらってよい暮らしを続けているのとは対照的に、大衆は戦争によって死と隣り合わせの悲惨な被害を受け、やっとそれを切り抜けたと思う間もなく、戦後はなけなしの金融資産を超インフレで喪失し、飢えに苦しむ過酷な現実に直面した。
謙二氏も例外ではなかった。終戦後はゼロからの出発だった。
常に悲惨な状況に大いなる力によって強制的に陥れられる存在であることへの憤りを感じつつも、それに言挙げすることなく諦念とともに飲み込む謙二氏の姿に大衆の原像を見る思いがする。
謙二氏は喜怒哀楽の表現を表だってする人物ではなかった。身に起きる、不安も恐怖も歓喜も絶望も怒りもある意味で淡々とした表情でやり過ごした。
しかし東条英機や昭和天皇にまつわる思いはさすがに重い感情を込めて語られている。
終戦時に東条英機が自殺未遂で巣鴨に拘置されたとき、謙二は「生きて虜囚の辱めを受けるなと訓示した東条が自殺に失敗し、占領軍に捉えられたと聞いて激しい憤りにかられた」と話している。
また昭和天皇に対しても開戦の詔勅を発布し、結果として国民を塗炭の苦しみに陥れた責任を全うしていないことに、憤りを感じている。謙二氏は「終戦とともに天皇は退位すべきであったとの思いを禁じ得なった」と語っている。
少なくとも天皇は終戦時に、日本国民に対し、また軍事力によって侵略し交戦した諸国民に対して、心からの反省とお詫びをするべきであった。
そして終戦記念日には毎年同様の反省とお詫びを飽くことなく繰り返していれば、天皇の戦争責任は全うされたはずだ。
そしてなによりアジア諸国民からの日本に対する疑念を完全に払しょくすることになったと思われる。
以上の意味で本書は戦後70年の日本の現代史をそれぞれが自分史として振り返るための良いきっかけを作ってくれる好著だ。
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