筆者にとっては今年のベスト書籍上位一、二を争うほどの興味津々の物語。
松井さんの本ははじめての経験だが、話の運びは軽快、文章はよどみなく、なにより主人公の造型がとても魅力的。思わず作中に引き込まれ寝る間を失うほどの傑作だ。
江戸時代、田沼意次から松平定信へと世の中が大きく節約、倹約に向かった頃、八百屋から精進料理の道へと進み二代で江戸一番の料理茶屋の高みに登った福田屋こと八百善の二代目八百屋善四郎の物語である。
善四郎は父親からの手ほどきを受け精進料理に精通し、そこにとどまらず海鮮、鳥獣も見事に裁くまでに腕を広げ、江戸市中に名声を揚げ、やがて飛ぶ鳥を落とす勢いにまで上り詰める。
素材と調理法の幅を拡げるために、伊勢や京、更には長崎にまでも足を伸ばし研鑽を積む傍ら、当時の超一流の文化人の知己を得て、料理に文化的な彩りを加えるに至る。
その文化人がまたすごい。
大田南畝(蜀山人) 幕府勘定方役人、狂歌に長けていた。
酒井抱一 老中、大老に任ぜられる格式の姫路藩酒井雅楽頭家の次男として誕生。尾形光琳に私淑して画家として大家をなした。
谷文晁 御三卿の田安家に仕え、松平定信に認められ定信の近習に取り立てられ、幕府の奥絵師としても活躍した。狩野派、北宋画、大和絵、朝鮮画、はては西洋画までもこなし、一家風を建てた。渡辺華山が弟子入りしている。
亀田鵬斎 儒学者にして書家。松平定信の寛政の改革で儒学は朱子学のみとされ、1000人にも上った弟子がことごとく退塾したために赤貧に甘んじて、それでも粋を極めた。門弟に藤田東湖がいる。
こうした文化人のサロンとして福田屋が場を提供していたのだ。
登場する江戸っ子の伝法な語り口がまた話をテンポよく運んで盛り上げる。こんな具合だ。
「できるもんか、できねえもんか、やってみなきゃわからねえじゃねか。やる前からしっぽを巻くなんざ男の風上にもおけないよ」
太田蜀山人の肝入りによるものか、芝神明前の書肆甘泉堂主人和泉屋市兵衛が八百善の料理本を企画し、料理のレシピや盛り付けを内容とする『料理通』が刊行された。
蜀山人と鵬斉が序文を記し、抱一が挿絵を描く豪華な顔ぶれがさらなる人気を博し、全国の趣味人の興味を惹きつけた。
『料理通』は引き続き三巻まで出版された。
まさに文化文政期の成熟した江戸文化とその担い手たちの息遣いが厚みも奥行きもたっぷりの表現で今そこにあるように感じられる素晴らしい一書だ。
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